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業界レポート

2005年 3月の業界裏話05年03月01日

お菓子ファンの皆さん、こん**わ。お元気ですか?。

さて、今回の業界裏話は、先月に引き続き「中部地区チューインガムのルーツを語る懇話会」(昭和61年9月・日本チューインガム協会中部地区主催)のものを、前回に引き続き「第2編」として掲載します。

先月もお知らせしましたが、我々が活動の本拠とする愛知県名古屋市では、2月17日に中部新国際空港「セントレア」の開港に続き、愈々3月25日には21世紀初の国際博覧会となる愛知万博「愛・地球博」の開幕と、色々な行事が目白押しで、この様な歴史的にも重要なイベントでの仕事をこなす内に「文字や文献になっていない史実を記録する事は、重要なんだなぁ~」なんて感じましたので、当社が記録した業界の歴史的な部分をWeb上に記録しておこうと考え、2ヶ月連続で掲載する事としました。

このコーナー的には、文字ばっかりで少々つまらないものになってしまうかもしれませんが、「業界の史実が何処かに埋もれてしまうよりは良いかなぁ?」なんて思ってますのでお許しを。

また、今回も記録時点(昭和61年)のままの文を引用しますので、文中に登場する方々の中には既に他界されて見える方もお見えになるという点をご理解下さい。

皆さんの中には「何でチューインガムの歴史なのに中部地区が出て来るのよぉ~」なんてお思いの方も有るかと思いますが、その昔は「バラキャラメル」や「飴(キャンディ)」など比較的設備投資が少ない製造業を中心に、当地区では色々なジャンルの菓子製造メーカーが多数あって、全国でも有数の菓子生産地だったんです。で、その中に一角に「チューインガムメーカー」も多数あったと言う事らしいのです。

日本にチューインガムが初めて輸入されたのは大正5年で、昭和3年ごろマサキガム、新高製菓などが国産ガムの製造販売をしました。しかし、当時の食習慣などに合わず、あまり売れませんでした。
第2次大戦中、アメリカ軍の携帯食糧にチューインガムがありました。昭和20年の終戦と同時にアメリカ軍のチューインガムは、新しいファッションとして急速に日本人の間に浸透し、生活の洋風化とともに愛好者を急増させました。

ま、戦後は食糧難で、特に甘いものに飢えていた時代と言う事もあり、製品を作れば作っただけ売れて行ったと言う話を良く業界の大先輩の皆さんから聞いていますので、メーカーで奉公していた従業員が適齢期になって結婚等すると、親方としてもそれ相応の給料を払わねばならなくなりますので、その対策として「暖簾分け制度」が確立され、分家として創業すると言った時代でもあったようです。

さ、それでは早速「中部地区チューインガムのルーツ」第2編をスタートする事としましょう…。
今回は、 中部地区ガム業界の発展の歴史の中で、原料の調達を担った原材料商社さんや拡売に努力した卸商社さん達の興味深いお話しが登場します。

◆まがいものの横行で甘味料入手に苦心

◆㈱長村商店・長村浜一会長
戦後は、お酒よりも甘いモノに飢えた時代で、中でも一番初めに売れ出したものがチューインガムだった。甘味料はサッカリン、ズルチン等で全て袋入りだった。
昭和21年駐留米軍がサッカリンの缶詰を持ち込み、原料商社の我々は藪下(地名)に有った清田産業さん(原料商社)に分けてもらったり、苦心して入手に奔走した。
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当時の相場はメチャクチャで、1缶200g入りが1万円~3万円、勿論まがい物も横行し、苦心の末1缶のサッカリン(モンサント社製)を1万円の大枚を叩いて買い求めて帰名した後、よくよく調べてみるとまがい物だった…と言うような事は日常茶飯事だった。また、砂糖を隠し持っていて泥棒に盗まれた事など色々苦労した事が懐かしく思い出される。

◆㈱大興商会・青山春次郎会長
チューインガムの拡売には名古屋食玩界の皆さんが随分ご活躍になった。我々原料商社もメーカーさんに尻を叩かれながら東奔西走し、1月の半分以上を東京で過ごした事もしょっちゅうだった。

チューインガム業界では大変ご活躍になった、ロッテの重光社長とも良く顔を合わせる機会があり、随分お世話になった。

名古屋でご活躍になったマルイマさんは、サントローのトレードマークで良く売られ、戦後は加藤重庫社長のマルカさん共々盛況を極めて見えた。
弊社もそのお蔭で大変儲けさせて頂いたが、10円札しかない時代にカバン一杯に10円札で40万円も詰め込み、神戸までモンサント社製品を仕入に行った事や商売での失敗談などが懐かしく感じられる。

◆酢酸ビニールの開発でメーカーに日参

◆曽我㈱・小黒一郎名古屋支店長
原料商社の営業マンとしては様々な想い出がある。
当時、社用で日本合成化学・大垣工場に行った所、倉庫に水飴の塊のようなものが幾つか有り、「これは何ですか?」と質問したところ「戦闘機の風防ガラスと枠の木部を接着する為の接着剤で、陸海軍の秘密資材だったが、終戦で用途が無くなったので、何かに使えないものだろうか?」と逆に相談された。

それで、そのモノについて色々調べてみると米国・ダウ社が使用技術に優れている事が分り、日本合成化学の担当者と辞書を片手に手紙で問い合わせたところ、同社製品とは製法は違うが、間違いなく酢酸ビニール樹脂であり、粘着性が高く、透明度があり、食しても無害である事が判明した。
折りしも、その頃大阪・新高製菓さんがガムを製造している事を知っていたので、同社に伺ってお話を聞いたところ、同社は昭和6年に米国・KC社と特約契約を結び、フーセンガムを発売していると言う事だった。そこで、酢酸ビニールの特性からするとフーセンガムのベースとしても使えるのではないか?と考えた訳だ。
ただし、当時の米国産ガムは、「口の中で噛んで味と香りを楽しむ…」と言うものではなく、「膨らませてフーセンを作って遊ぶ玩具的要素が強い…」と言う事だった。

当時ガムベースとして一般的に使用されていたジロトン樹脂は、高価で扱いづらい特性を持ったモノであるという事が調査で判明し、その「代替品として酢酸ビニール樹脂を使えないだろうか…?」と考えて、真っ先に丸川製菓さんに持ち込んだところ、「実はカネボウ社が同様なモノを持って来て使っているので、実際に使えるかどうか試作をして見ましょう」と言う事となった。
後に判った事だが、今と違って酢酸ビニール樹脂は重合度のコントロールが難しく、原料段階での精製度もまちまちで、製品化する度に使い方を変えなければならないという状態が約1年に亘って続いた。この事で、日本合成化学も真剣に研究に取り組み、昭和24年に新規計画で生産体制を整える事となり、チューインガム専用の酢酸ビニール樹脂の生産に成功した。

チューインガム専用の酢酸ビニール樹脂は、使い易い様にと当時は溶剤(アルコール液)を50対50の割合で樹脂を溶かしたが、かえってこれが邪魔となり、アルコール分を飛ばす為に鍋に入れて火にかけたりしたが、この事から良く火災を誘発することとなり、こんな事では将来の展望は望めないと言う事で、更に研究が進められてアルコール溶剤を使用しなくても良い現在のガムベースが出来上がった。
当時は、新聞種にこそならなかったが、1ヶ月の間に4回も火災を起こしたり、爆発に次ぐ爆発で死者を出したメーカーも有った。
このような危険な目に合いながらも、研究と経験を積み今日のガムベースが出来たのだ。

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◆専用香料の開発でメーカーと共に発展

◆㈱小出物産・小出健俊社長
昭和25年~26年頃に後継者として弊社に入社したが、当時の香料業界は曙時代だった。例えば、チューインガムには「アミアセ」とか「ベンアセ」など単品香料にちょっと他品を混ぜたモノが使われ、レモンが少々入っていれば良い方で、北海道産のハッカ油等を賦香してやっていたものだ。

当時の菓子業界の一方では、バラキャラメルも猛烈に売れて、名古屋にも数10軒のメーカーが有り、キャンディメーカーも多数有った。キャンディの香料は与えた香りがそのまま付くので非常に簡単で、キャラメルもそんなに香料が効かなくても乳製品の焦げる味やバターなどで結構味が出てごまかす事もでき、香料商社の責任も今と比較すると非常に軽かった。
しかし、チューインガムは大変で「香料はダルマの目と言われるほど重要だ…」と先輩諸氏から教えられた。
キャンディやキャラメルに賦香する香料の量は1000分の1程度と非常に微量だったが、ガムは1000分の5と大きな賦香が必要とされるので非常に難しかった事に加え、もっと多くの香料を必要とするお菓子に原料商社として挑戦したいと言う思いが、商売の励みとなった。

戦後、松樹脂(レジン)に香料を強く付けたモノが主流で、香料の見本を持って得意先を回ると「薄い!」と良く言われたもので、キロ当たり1500円~1600円程度の香りの強い香料が好まれた。
昭和23年~24年頃に重合度が2000~3000と言う酢酸ビニールが主だった時、これに香料を賦香しようとすると、機械がよくスリップを起こし、中々香料が混入出来ずに、噛み始めると直ぐにパッと香りが散って保留が効かない事があった。その後、昭和27年~28年頃にようやく重合度が100を割った酢酸ビニールが出来、丁度その頃にチューインガム専用の香料が出来て各社が大いに拡売を競い合ったものだ。

その後には、砂糖に代わってブドウ糖が使われるようになり、水飴の添加や、甘味料の改良などに連られて昭和28年には乳化香料が出来た。また、技術は更に進み昭和30年には粉末香料が開発され、チューインガム専用の粉末香料も競って作られるようになった。

この様に、原材料の変遷から香料もそれ等に「追いつけ、追い越せ…」と進歩を遂げ、近年ハードキャンディに見られる様に、味や香りが目まぐるしく移り変わる様になって来た訳だが、新しいものも良いが、本質的な味の研究こそが最も重要ではないかと思う。

◆金額が張り嵩があるガムは優等生
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◆㈱正直屋・宮田正直会長
弊社は戦後名古屋駅裏で2・2坪のマーケットから菓子卸問屋を始めて以来、37年~38年間となる。ガムは大阪方面からどんどん入って来ており、名古屋ではマルカさんや丸川製菓さんににお願いして商品を仕入れ販売していたが、順番待ちの列に並んで商品を分けてもらい売った希有の時代であり、商品さえあれば幾らでも売れた時代で、売る立場としては非常に楽だった。現在でも日本のガムは世界に誇る高品質の商品で、この業界に身を置ける事を大変感謝している。

◆㈲三浦商店・三浦栄一社長
ガムが名古屋で始まったのはマルイマさんからで、ここが一番古い。マルイマさんは大変研究熱心な方で、神戸で技術を習得して独立創業されたと聞いている。
「金額はのす、嵩は少ない…」と言う事で、商売で儲けるためには、これしかないと思ったと言うのがマルイマ・伊藤社長の考え方で、戦中・戦後に大当たりに当たって業績をグングン伸ばされた。

コーテッドガム(糖衣掛けガム)の開発には随分投資されたようで、2~3坪の部屋を完全無菌工場として、外国人技術者を招いて研究に研究を重ねたが中々思うような商品が出来なかったようだが、別の熱心な技術者の協力もあって完成に漕ぎ着けたと言う経緯があった。

マルイマガムの取扱い問屋は名古屋で僅か6軒で「商品を欲しい者はそこで買え、俺の商品は一玄に売るような商品ではない…」と言う頑固親父だったが、自社商品については絶対の自信を持っていた人だった。
戦中のモノの無い時にはゴムでガムを作っていた時も有るらしく、戦禍で中断。戦後に当地区で酢酸ビニールでガムを作ったメーカーは、マルカ、渥美郡田原のカネヨ山田、石川、名古屋のノザキ製菓、外山商店、カステーラで有名な長崎堂、丸川製菓、藤田製菓の各社だった。
当時は、これ等メーカーさんから商品を集めるのに大変難儀し、その上、仕入の得意先小売店が夜中まで押しかけて帰らず、私の店にタムロして困ったものだった。

◆マルモリ加藤商店・加藤盛雄社長
弊社がガム専門問屋として商いを行う様になったのは、「嵩が小さくて、売上がのす…」点に注目したからだ。メーカーの品質向上については、バカ正直と言われるほど力を入れ、あえて苦言も言うようにしている。

◆名古屋食玩組合・愛葉金之助理事長
食玩と言われる食品玩具の加工卸売商社を営んでいるが、昭和5年~昭和6年頃、「1銭くじ付き大当たりガム」が売れ、終わりに残った4個~5個の商品を箱なり貰った記憶がある。戦後、食玩加工で「宝箱」の中に「大当たり」を組む様になって30年程となるが、当時から現在に至るまで「宝箱」の中にはガムは必ず入っている。嵩が小さくて、金額がのし「宝箱」を組む時にも、小さいから箱代が安く上げられ便利だと言う事で、今後も食玩分野ではガムは重宝されるだろう。

◆爆発の連続で苦労、化学品ゆえ研究第一

◆ノザキ製菓・野崎清子社長
昭和21年当時、愛知時計に勤めていた主人が「飛行機の接着剤からガムが出来る…」と聞き、その接着剤を貰って来てサッカリンを添加し昭和22年にガムを作ったのが最初だった。
当時、釜で原料を炊いていると「パッ」と火が出て大騒動したものだ。今では、容易く出来る様になったが、あの頃は糖衣掛けの商品も、商品の均一性を図る事が非常に難しく、その日その日で仕上がりが違った。

◆研究の鬼、マルイマガムの伊藤益次郎氏

◆いずみ製菓㈱・沓名優兆社長
私は現在、安城で米菓や手延べ麺、外食事業などを行っているが、かつて身内がマルイマ製菓さんに知遇を得た縁で、戦火のまだくすぶっていた昭和20年10月にマルイマ製菓に入社した。その後、4年間ほど勤めたが、伊藤社長は大変厳格な人物で実業家であり、男だても良く、政治家でもあると言ったスケールの底知れない人物だった。

酵素の活用、ラジウム、洋式健康法、玄米食、生食の励行者でもあり、調理には一切金属で出来たものを使用しなかった。また、信仰家として凡人を超越した人物でもあった。

私が同社に入社早々、焼け跡整理を言い付けられ作業をしていると、香料の匂いが地面から一気に吹き上げ、目や鼻が痛くなった事があった。丁度そこへ社長が来て「この場所は俺の宝だ…」と言ったが、後にそこが香料の地下貯蔵庫だと言う事を知った。
作業を進めるに連れ、井戸や地下タンクから、丸や四角のモノがゴロゴロ出て来たのだが、それにはシンガポールやクアラルンプールと言った刻印が押されており、後にそれがチクルである事を教わり、内地への最終の船便で持ち帰ったものだと言う事だった。
何故、それがそこに有ったのかと言うと、このチクルの風化を防ぐ為に埋められていた様で、このタンクに水を汲むのが小僧の仕事だった。
また、もう1つ丸い形をしたものが大量に見つかったのだが、これは南方からの生ゴムが入らなくなった為、台東(台湾)で東北帝大出身の学者をスカウトし、ガジュマルの木から樹脂を採集し、ゴム培養の研究をさせていたものを内地に持ち込んだものだった。

その後、社長婦人の弟に当たる加藤重庫さんが「エチルアルコール使用のガムを完成したので、試食してみて欲しい…」と訪ねて見えた事があったが、試食で口に入れた途端目が飛び出るほど辛く「こんなものが売れるか!」と社長に怒鳴られていた一幕も鮮明に思い出す事ができる。

マルイマ製菓さんは、松樹脂とガジュマル樹脂を原料に天然ガムから出発された。
ある時社長は「俺はかつては求肥を製造していたが、その時丁度セールスに行った西区新道の菓子問屋で、森永製菓がキャラメル宣伝の為に巡回中の16mmフィルムを見て大きな感動と歓喜を味わった。この感動に触発されて新技術を求めて神戸や大阪を奔走し、ようやく辿りついたのがチューインガムだ…」と話してくれた事が非常に印象に残っている。

その後、米国・リグレイ社から製造技師を招いて、当時落成したばかりの名古屋観光ホテルに宿泊させると共に、当時のサラリーマンの50人分と言う破格の給料を払って技術を教わり、導入の契機を掴んだと言う事だ。

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と言う事で、2ヶ月連続で「中部地区チューインガムのルーツ」をお届けいたしましたが、いかがだったでしょう?
文字ばっかりですから、すんごく疲れたでしょうねぇ。
でも、結構興味深い内容だったでしょ?製造メーカーや原材料商社、そしてそれを販売した卸問屋さんの話等どれをとっても時代の移り変わりが鮮明に記されていて、何だかうらやましくもある時代だったんですねぇ。

ま、そんな事で、これからもたまにはこんな歴史的史実の記録なんてのも考えて行きたいと思っています。
では、 次回もお楽しみに・・・。
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